2、術後の抗がん剤と放射線治療
手術
1月27日に入院し必要な検査を受け、1月28日に手術。1月29日に最初の抗がん剤の点滴を受けました。
手術前の27日の夜、気分が悪く、風邪ひいたかなとドクターにはいわれたのですが、数日後、看護師から手術前は血圧が210まであがっていたことを告げられました。自覚はないのですが、手術前の緊張は身体に現れるですね。手術直後、もちろん痛いのですが、胸にはガーゼがはってあるだけです。次の朝、雨宮ドクターにガーゼをさっととられ、以後、ガーゼなしで、7ミリ幅の長さ3センチのテープが縦に20数本貼ってあるだけです。さらに数日後テープを1本1本はがしていくと、0・2ミリくらいの線が、1本浅い逆Vの形で5センチほどあるだけでした。手術跡がきれいなのに感激しました。
抗がん剤
手術後の夜、雨宮ドクターから「やっぱり癌だったから、明日、抗がん剤の点滴をしようね」
癌であることは受け入れるしかないことだけれど、抗がん剤は副作用の脱毛が気がかりで抵抗がありました。
「明日の朝まで、抗がん剤は、考えます。」
同室のななめ向いのベッドの人がそっとやってきました。再発して手術を受け、スカーフで髪をきれいに整えていた人です。スカーフを取り脱毛の様子と、パジャマの上着をあげ再発で全摘しなくてはいけなかった胸の傷跡をみせてくれました。初発癌の抗がん剤では脱毛は激しくなかったこと、再発の抗がん剤の方が脱毛の副作用が強く、ほとんどに脱毛したことを教えてくれました。隣のベッドの人は、抗がん剤を点滴してから3週間くらいでぱらぱらと髪の毛が抜け落ちてかつらを用意するほどではなかったのだけれど、髪の毛が落ちることで周囲の人が不快になるのを防ぐために、帽子やスカーフで頭をカバーしたことを話してくれました。
抗がん剤の点滴を受けることにしました。抗がん剤の点滴の前に、副作用の吐気止めの点滴と、飲薬の処方があります。吐気止め効果で、抗がん剤点滴後の3日間は気分は普通でしたが、その後、つわり状態に襲われました。
退院から3週間近くたって、髪の毛が抜け始め、髪に手をいれると一度に10数本の髪が手につきます。朝、枕に髪の毛の抜けたのがごっそりとあるのが不快でした。かつらを利用しました。
同病の人との会話は必要!
術後2日目から、廊下の一角のサロンなどをうろうろ。入院している人達は、同病の人との症状等の情報交換や不安感の共有で、精神的に安定し、状況判断をして次の行動に移っていくことがわかりました。人によって、抗がん剤の副作用がさまざまなこともわかってきました。治療の進行の目安がついて安心しました。
1月31日には、大船市内をぶらぶらと散歩し、2月1日には、横浜にすんでいる友人達と江ノ島にいってきました。
2月2日、退院。退院の前にドクターの説明。生存率の話と抗がん剤・放射線治療についてです。
私の場合、統計的には、5年生存率は、96%、10年生存率は84%。
抗がん剤は、1週間に1度を2回続け、2週間休むという周期を1クルーで、何クルーするか、慶応病院に放射線治療にいくとき近藤ドクターに相談してくることといわれました。
「何か質問は?」
「放射線治療は、近隣の病院ではできませんか。」
「放射線は、手術よりもっと難しいし、責任もって薦めるところは慶応病院の近藤だよ。」
「町中に癌だと噂をたてられる精神的ダメージは、どう回復すればいいのかな」
「しこりだけ取った良性のものだったといえばいいじゃない。」
2月3日、臨時議会に出席しました。
議員達が、どうだったと様子を聞いてくるので、「シャツを開いて、傷跡みせてあげようか」と、おもわず、逆セクハラ(もちろん言葉だけです)。元気なので安心してくださいね。
放射線治療
2月5日午前、慶応大の放射線科で近藤ドクターの診察。ドクターは、抗がん剤は、副作用を考えるとやっても3クルーまでといい、翌日放射線の設計図を身体に描かれることになりました。午後、雨宮ドクターに、抗がん剤は3クルーまでという話を伝え、1クルーの2度目の抗がん剤の点滴を受けました。
放射線治療は、身体に特殊なマジックで設計図を描かれることからはじまります。
私の場合は、2方向からの照射。1週間に5日、25回続けて通院です。議会中は休んだり、時間をずらしたりしながら3月17日まで、慶応病院に通院しました。
照射の位置を確認するために数分、照射時間は2分程度で、治療室に入ってからは10分もかからない治療です。
身体に描かれた赤や黒の線を人にはみせたくないなあ。
夫に参考のためにみせてよといわれても、「もったいなくってお見せできません。」と断っていました。
3週間目にはいると、右胸だけ放射線焼けで、茶色っぽくなってきました。そのうちゆでたジャガイモの皮のような皮膚がはがれてきてしまいました。
慶応病院放射線科の通院で知り合った人と話し、放射線治療も後半になると、放射線やけで、皮膚がむける症状になる人もいるということで、一安心。
手術の影響で、自動車を30分くらい運転すると右腕がしびれ、急カーブを曲がるとドーンと痛みが強くなります。しこりだけ取る手術でも身体には相当の負担があるので、全摘になった場合の負担は、かなり日常生活に支障があることが推測できました。納得のいく選択をしてよかったと満足。
抗がん剤の副作用と症状に現れない身体の負担の大きさを考え、抗がん剤は2クルーで止めることに決めました。
放射線治療の副作用?
3月議会は放射線治療中に開会しました。
8市町村の市町村合併を平成17年3月までに進めると、平成15年度の施政方針で打出しているので、嵐山町の転換期でもあり、欠席することは私にはできません。
1万人以下の自治体は、自治体としての機能を一定のものに制限するという西尾私案で、人口1万人以下の自治体の焦りもあり、合併した自治体が公共事業のために借金することを国が財政支援するという合併特例債の期限までの合併をめざすと加速してきました。
ところが、予算書をみると合併協議にかかわる経費が予算化されていません。次の日が予算案の最終日という日、放射線治療も最終日でしたが、半徹夜してしまいました。予算案の総括的な質疑をして討論をしたらダウン、その日の夜から体が動かなくなってしまいました。
議会の一般質問は欠席です。右胸がだんだん腫れて、左胸の2倍くらいの大きさになってしまいました。ベッドから起き上がるのが辛く、4日後やっと受診できました。
雨宮ドクターから、身体の様子全体を電話報告するようにといわれました。そのうち、右胸は岩が胸に張りついているように重く、痛みは強くなっていき…さらに内圧で膨脹して、皮膚が伸びきって手術跡の1本線が消えてしまいました。
受診から1週間後、傷口が3ミリほど裂けて、透明な黄色の液体がでてきます。治療を受けるしかありません。
ドクターは傷口を切開し、癌部分をとったあとに炎症を抑えるように薬が染みこんだガーゼを詰めこみました。傷口にガーゼを入れ、滲出液がでなくなるまで、傷口は開けておかなくてはいけない・傷口が閉じないように毎日ガーゼを交換する…このような症状は、本にも、乳がん患者のホームページにも掲載されていないので、不安でした。
ドクターは「直るよ、時間がかかっても必ずもとのように直るよ」と私の不安を一掃するように明るく慰めてくれるのですが、腫れた右胸の堅さと尋常でない痛さのショックで、術後の放射線治療に通院していた頃の確実に回復しているという安心感を失いました。辛いなあ。
1ヶ月経つと、胸の腫れは引き岩のような固さがとれ、通常の生活ができるようになりました。乳ガン医療について記されている本で、放射線治療後に腫れてくる後遺症で苦しむ人が少ない数ではあるけれどいることもわかってきました。放射線照射回数や照射量、体質、抗がん剤との重複によって副作用の出方は異なるらしく、1ヶ月後私は放射線治療の後遺症と思われる症状から回復しました。
3ヶ月経過した今、胸の大きさも柔らかさも、回復してきました。
体力と気力は、7月5日現在80%くらいまでは回復したと思っています。