大正6年菅谷村で生まれたAさん、
(新聞広告の裏紙でノートを作り、ていねいな字で書かれる生活をなさる
Aさんを私は敬愛しています。)のお話しを伺いました。
Aさんは、ここに書いているほか、もっといろいろなお話を聞かせてくださいました。
が、公開してもいいと許していただいた部分だけを書かせていただきました。

Aさんは昭和13年小川町で兵役検査が実施されて、第一乙種合格で、420日に召集されました。17年にも召集され、2回中国に出征されています。

大隊本部付衛生兵だったので部隊の最前線は経験していない。

が、敵機が来襲したときは、小さな一人用の防空壕に入った。本部は敵襲される恐れが大きいので、一人用の防空壕をつくるように指示があった。身体が埋まらないように上半身は出て、身体が隠れる物陰をつくっていた。

前線にでていた人が戦死すると、戦友が遺体を持ち帰ることができるようにリュックにいれることができる身体の一部を持ち帰った。

遺体を木材などの上において、焼き、軍隊の名簿からお寺のお坊さんを捜し、見つかったら、お経を唱えてもらい、一人一人の遺骨を確認して日本に護送した。

昭和18年6月、遺骨護送要員として、上海を出発して、大阪港に到着。大阪港の護岸に原隊や国防婦人会が多くの人が並び待っていた。

遺骨をお渡しする任務が終わると1週間の休暇をもらい、、父・母に会い、又、中国指令本部に戻った。

戦後は捕虜になって、半年奉天にいた。玄米が支給されたので、びんにいれて、棒でつついて精米した。野菜はなく、原っぱでタンポポなどをとっては食べた。

 昭和21年6月復員した。上海から博多港に入港。東京は空襲で焼け野原だったが、嵐山駅に降りたとき出征した時と変わらず、帰ってきたと安堵した。兄弟3人が外地に出征し、両親は毎日、光照寺に参拝して、無事に帰るように願かけし、お茶断ちを していた。その辛さを思うと涙があふれ出てしまった。兄弟3人とも無事に外地から帰ってきた。

私達が最後の戦争体験者として終わってほしい。